ヨシダナギさんの乳首が見えない違和感【アート論】

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アフリカの少数民族の写真を撮り続けるカメラマン(ウーマン)・ヨシダナギさん。裸族の写真を撮るときは、自分自身も裸になって撮影しているとのこと。

【外部サイト】パンツまで脱いだら歓迎の舞が始まった 裸でアフリカ民族を撮り続ける女性写真家が伝えたいこと|ウートピ

素晴らしいと思いました。写真というのは、どうしても「撮る者・撮られる者」で分断されてしまい、撮る側は被写体をアートや金の種としか見ていなかったり、撮られる側も「どーせ見世物ですよ」的に考えてしまうことがあると思います(例:観光客慣れしすぎている首長族)。

そうならないためにも、裸族を撮るなら、自分も同じスタイルになるというのは素晴らしいと思いつつ・・・あれ? この写真、なんかヘンじゃね?(どちらも、上記「ウートピ」からの引用です)

色が白いのがヨシダナギさんなのだろうけど・・・

http://wotopi.jp/archives/26528 より

こっちはもっとヘン。

http://wotopi.jp/archives/26528 より

そう、ヨシダナギさんだけ、乳首が見えていないのです。画像が加工されているのか、ニプレスなのか。

「裸になった」と言ってるくらいだから、ニプレスは付けていないだろうし、画像加工なのだと思います。

だとすれば、誰がなぜ画像を加工したのでしょう。現地の人たちは乳首丸出しです。

この写真を掲載している「ウートピ」というメディア?

さらに、TBSの「クレイジージャーニー」というテレビでも、なぜかヨシダナギさんの乳首だけボカシ加工されていました。DVDでもボカされていると思います。

うーーーーーーん。悲しい。そして、表現者としてそれを許していいのだろうかと思います。

私が現地の人だったなら、「なんだよ一緒になったんじゃないのかよ!俺らだけ裸で、自分はモザイクかよ!ここに来たときに裸になったのはただのポーズかよ!」と思います。

日本のメディアの基準で「乳首はNG」というのがあるのかもしれません。だけど、現地人の乳首と日本人の乳首に差があるのでしょうか。

万が一、「日本人の乳首だけはNG」とか「私の乳首は見られたくない」というのがあるのなら、そもそも写真に一緒に収まるべきではないと思います。

結果として「カメラマンと被写体」というものが分断されて見えてしまいました。見えてないけどさ。

情報をいただいたので追記

ヨシダナギさんご本人のブログでもボカシが入れられているとの情報をいただきました。テレビでもボカされていたし、かなり徹底しているようです。

【外部サイト】赤土に塗れて脱いで来た with ヒンバ族|nagi yoshida – 自由奔放な女の写真放浪記 –

ご本人が利用されているブログサービス「ameblo」の規約で「性的なものはNG」というのがあるし、「日本人はふだんから乳首を隠している・現地人はふだんから乳首は出している」という考え方や「私はカメラマンであり、被写体ではない」という認識の下に立てば、自分の乳首を隠したくなるのでしょうけど、なんかチグハグな印象を受けました。

現地の人は写真に撮られるのを嫌っているわけですよね。だからこそ、カメラマンが裸になったときに心を開いてくれたわけですよね。もしこれが、現地の人が「ナンボでも写真撮っていいよ!」という気持ちだったなら、カメラマンがどんな格好でも構わないはずです。

そういうことを分かっているから自分も裸になったはずなのに、強い言い方をすれば、これは被写体(現地の人)への裏切りではないでしょうか。自分の裸をわざわざボカすのなら、写真に収まらなきゃいいだけだし、「裸になりました!」みたいなこと言わなきゃいいのにな、と・・・。

もちろん、ヨシダナギさんを差別主義者だ!と言いたいわけじゃなくて、私が一番強く感じたのは自分の作品に(それが他人が撮影したスナップであったとしても)ボカシを入れるのって、なかなかできることじゃないと思うんだけどなー、という感想です。